痛み 治療 のための 生活指導 

桃子のつぶやき

痛み治療のための生活指導 その1

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痛み治療のための生活指導

「痛みはこの世でもっとも凶暴な教師であり生きている限り逃げることができない」
意識しようと無意識であろうと我々は痛みに逆らうことは絶対に不可能である。

 

そして逆らえば逆らうほど痛みの強さは増大し、いずれ痛みにしたがわざるを得なくなる。意志が強く立派な志を持つ人ほど小さな痛みに耐えようとするため、痛みの力はどんどん強大となる。

 

  • 高齢はこの暴力教師である痛みをいつでもどこにでも連れてやってくる。そこに理由などない。高齢こそが理由であるからだ。にもかかわらず高齢者は痛みの理由を探すために自分の全人生と全財産をかけて医者をかけずりまわる。理由を探して取り除けば、痛みという暴力教師から逃れられると思っているからだ。痛みとの決別は高齢者の願いではなく、夢と化す。

 

  • 私は人の痛みを感じる。高齢者の痛みだけではなく、彼らを介護する家族たちの痛みまで感じてしまう。だから私はこの歪んだ高齢化社会が憎い。何とかしなければ…
    私はおそらく誰よりも痛みを取り除く方法を我欲を捨てて熱心に研究してきた。その上でつきあたった真実がある。それは人間が痛みと欲という二人の暴力教師によって支配されて生きているということ。彼らとは命ある限り決別できない。そして決別は死を意味するということ。

 

  • 彼らに逆らうことも逃げることもなんぴとたりともできない。彼らとうまくつきあう方法を考えることが最良の策であるという真実にたどりつく。痛みと欲の二人の暴力教師とうまくつきあう生活指導が真の痛み治療に必要であるという真実にたどりつく。皆は知っているだろうか? いや知らないかもしれない。真実は常に人を傷つけるものだということを。この意味がわかるのならば逆の意味も理解できる。

 

痛みとは

  • 痛みは肉体に対し主が破壊行為をしていることに対して肉体が主に行う処罰である。主とは脳であり自己であり意識である。軽い処罰のうちに破壊行為をやめなければ、肉体は重い処罰を用意する。痛みを感じた時は即時、その破壊行為をやめなければならない。つまり生活指導の大原則として「痛いことをやってはいけない」ということを厳守しなければならない。

 

  • 痛みを伴う行為はそこらじゅうに存在する。顔を洗う行為、お尻を拭う行為、寝床から起き上がる行為、歩く行為、仰向けに寝る行為、ソファーに座る行為…これらの一つ一つの行為において痛みが来ないように行動を起こすか、もし痛みが来るのなら即座にその行為を中止しなければならない。あなたの人生のすべてをかけて、痛み行為を中止、または痛みの来ない別の方法を行ってほしい。歩くと痛みが出る時は借金をしてでもタクシーを使う。痛みで仕事ができない時はクビになっても休暇届を出す。葬式の最中に痛みが出るなら、参列を中止してでも帰宅する。人生のすべてをかけて痛み行為を中止することは簡単ではない。しかし、これができるのは一握りしかいない。できないから痛みという体罰を肉体から受ける。

 

  • 痛み以外を信じてはいけない。マスコミたちは「痛みを解消する運動」「痛みを防ぐ体操」などを用意している。どれほど権威のある教授が考案した体操であっても、あなたがその体操をして少しでも痛みを感じるのであれば、その体操を信じてはいけない。痛みは常に正しい。そして痛みは常に絶対である。痛ければあなたにとって肉体破壊行為になっている。

 

  • 痛くない体操であれば続けてもよい。痛み以外、どんな権威者の指導する運動療法も信じてはいけない。それはスポーツトレーナー、理学療法士、医師の指導をも含んでいる。痛み以外のだれも信じてはいけない。

 

  • 人のからだは100人いれば100通りの異なった肉体があり、老化も変性も100通りの変化がある。体操や運動も100通りのやり方があり、それを一様に扱う体操や運動療法に正解はない。正解は自分自身が研究し自分自身がやり方を導き出さなければならない。万人に適応する運動などない。信じるべきは痛みであり、痛みがないように全ての運動を自分なりにアレンジしなければならない。それができない者には運動療法は適さない。痛みを無視して運動すれば、運動を行う前よりも強い痛みがあなたを襲う。そして周囲に多大な迷惑をかけるようになる。

 

  • ただし、痛みというデメリットよりも運動による血行回復によるメリットが上回る場合もある。その場合のみ痛みをこらえての運動が許される。が、これを理解しその境界線を認識することは難しい.

 

(日常損傷病学より。)

 

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